弘化四年の洪水で、犀口四堰取水口は壊滅し、堰筋は土石流で埋まった。川中島地域では飲み水にもことかき、田植え時を控えていたため一日も早い復旧が待たれた。
下堰は水門から流末東福寺中沢まで約二里一〇丁(約八・九キロメートル)あり、灌漑区域は、享保十七年(一七三二)段階で松代領一四ヵ村・他領五ヵ村であった。一九ヵ村勤め高九三三〇石は、川中島三堰中もっとも多い。下堰復旧工事は四月二十三日(新暦六月十日)からはじめ、通水は五月十五日(新暦六月二十七日)であった。「下堰掘割箇所絵図」(四ッ屋「中沢家文書」)によると犀口水門から字庚申(こうしん)待居(四ッ屋)までの用水路(下堰)は五三三間余(約九六九メートル、以下は間をメートルで記述)でその上流約四〇〇メートルは新掘り、その下流約五〇〇メートルは堰敷掘り工事であった。九六九メートル余は四分割され、掘り口約九メートル、式(敷)七・二メートル、掘り(深さ)一・五メートル、一分割分は水門から約一六三メートルまで、掘る間数は各村の灌漑面積によって割りつけられた。二分割から四分割までの工事も一分割とだいたい同じである。庚申待居からの下流は、三分割され、上流は四八三メートル、掘り口七・二メートル、式三・六メートルで掘り一・八メートル、中流は四四五メートル、掘り一・五メートル、下流は四一〇メートル、掘り〇・九メートルである。以上は小島田村・上布施村・広田村・小森村・西寺尾村、大塚村・中沢村・上氷鉋村・下氷鉋村・藤牧村・東福寺村・中氷鉋村・杵渕村・戸部村一四ヵ村が分担した。
のちの鯨沢堰筋は六分割され、小島田・上氷鉋・下氷鉋・大塚・中氷鉋の五ヵ村が分担した。峰嶋堰の工事は、四ッ屋村・中氷鉋村・上氷鉋村が分担し工事をした。
三堰組合(上・中・下)は、毎年用水保全のため、春・秋の堰掘りを義務づけた。下堰所属一九ヵ村の出人足は、勤め高一〇〇石につき三人ずつのきまりで村高に応じて割り当てた。享保十七年一九ヵ村の春普請出人足は延べ三六〇〇人(うち、四ッ屋村三九人・今里村三九人・上氷鉋村三五一人)、秋普請は、延べ二二〇〇人(うち、四ッ屋村二四人・今里村二四人・上氷鉋村二一六人)であった。