江戸時代、桑は原則として原野などの場所にしか植えることができなかった。今里村・上氷鉋村では宝永(ほうえい)三年(一七〇六)ころ、蚕を少し飼っていた。「桑少々御座候、もっとも高入りに御座なく百姓勝手に植えおき申し候」(「上田藩差出村明細帳」)とある。
松代藩は寛政以降(一七八九~)物産係をおいて養蚕業を奨励した。信濃の養蚕業は上田から始まり松代などに広まりさらに県内全域に拡大した。明治三十年代(一八九七~)ころから養蚕業の粗収益は米麦を上まわった。今里村全戸の約八五パーセント、笹井村同約七八パーセントの家が蚕を飼った。『更級郡誌』笹井村の項に「この村犀川沿岸の桑園は霜害を受けしことなし」とある。養蚕業のさかんな笹井村にとって無霜の気象条件は有利であった。桑園普及の絶頂期であった昭和五年(一九三〇)ころ畑地面積の大部分は桑園となった。しかし、世界大恐慌を機に養蚕業は衰退していく。