昭和二年長野盆地一帯は大霜害により桑が全滅した。このことにより、桑よりリンゴが霜に強いことがわかった。また、同四年の世界大恐慌は、長野県の経済に大きな影響をあたえ、農業現金収入の約八二パーセントを占める養蚕業にとってはとくに深刻であった。同四年九月夏・秋蚕平均相場が貫あたり六円三六銭であったものが、同五年六月には二円一〇銭に暴落した。これを機に恐慌下の農産物の収益が相対的に有利であったリンゴや疏菜(そさい)への作付け転換がおこなわれた。県は同九年に農業恐慌対策として、臨時産業振興対策費五八万円余を計上し、この施策は同十三年までつづいた。リンゴは有力な桑園の転換作物として積極的に奨励され、リンゴ栽培は同十五年まで進展したが、同十六年から戦時体制の強化(リンゴ作付け禁止)により後退した。川中島地区のリンゴ栽培が本格化するのは戦後になってからである。