現市道三三〇号線などは、慶長十六年(一六一一)に整備された旧北国街道であった。このころ北国街道から分岐し遠近に通ずる道もしだいにつくられていった。北国街道は江戸-信州-越後(佐渡)を結ぶ重要な道で、川中島地区には丹波島宿-屋代宿のあいだの南北約一四〇〇メートルが通っていた。街道は善光寺参りの旅人や物資の運搬、参勤交代などでにぎわった。街道沿いの家々には旅人や近郷の人びとを相手にした商いをして利するものもあった。その反面、「街道が村中を通っているために、かえって村びとの生活を圧迫させるところもあった。街道を通る貧しい旅人を助けるための草鞋(わらじ)代・宿銭・食事代・病んだ旅人の治療や薬代・死亡者の後始末などの村支出は、毎年総支出額の三〇~四〇パーセントにおよんだ」(『上氷鉋誌』)とある。江戸時代にさらに村の大きな負担となったものに助郷(すけごう)制度があった。宿駅常備の伝馬・人足が不足する場合に、指定されて応援の人馬を負担する村を助郷あるいは助郷村といった。また、その課役自体も助郷という。常任のものを定助郷、臨時のものを代助郷・増助郷・加助郷という。交通量が多くなった幕末には助郷村の負担が増大した。当初上田領の今里村・上氷鉋村は稲荷山宿の助郷であった。塩崎知行所が成立してからは知行所の村々は領内に宿駅がなかったので助郷はなかった。上田領の今里村・中氷鉋村などは稲荷山宿のほかに中山道和田宿(小県郡和田村)の助郷を課された。しかし、塩崎知行所の村々も、文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)和宮下向のときには和田宿の加助郷を課されている。助郷は明治維新の助郷制度廃止まで村々の大きな負担となった。