弘化四年の震水災

678 ~ 679

四ッ屋村は犀口に一番近いため、弘化四年(一八四七)大地震後の大洪水の水勢をまともにうけもっとも大きな被害をこうむった。村の八五軒のうち、地震で潰(つぶ)れた家は一四軒(うち二軒水主(かこ))、流された家が六四軒、半潰れで流されなかった家七軒(うち四ッ屋二・中島五軒)であった。地震による死者は七人、松代藩家老河原綱徳は『むしくら日記』に「四ッ屋の儀は軒別八十軒の内、七軒相残り、悉(ことごとく)流失、跡一円河原と相成」と記している。砂礫(されき)の流入は莫大(ばくだい)で、村西付近で一・五メートルといわれ、犀口から約二キロメートルはなれた中沢家(堰守)に流れついた大石(長径三・五メートル・短径二・二〇メートル、高さ二・五メートル)は水勢のすさまじさを語っている。また、当地には今も当時の土石砂を集めた砂山・石山など散見される。「松代藩は四ッ屋村の家屋潰れ、流失などに六二両三分、災害貸付・開発資金として三〇〇両、大・小麦種各二〇俵などの手当てをくだした」(池田三夫「四ッ屋村の被害」)。上氷鉋村の被害は震死者一三人、流死者九人、全二〇〇軒のうち一〇八軒・四〇〇棟が流失した。倒壊・流失しなかった家は七二軒だった(『更級郡誌』)。犀口から約三キロメートル離れた丸田家の大石(長径二メートル、短径一・三メートル、高さ一・六メートル)は、中沢家についで大きいが、土蔵を突き破ったあとちょうどよく当家の庭石におさまった。(「上氷鉋村荒所絵図」上氷鉋区有)をみると、村内の流失家屋や大荒れの場所などをうかがうことができる。今里村の被害は、潰れ家五軒・流失一六軒。更級久右衛門(古森沢)は、災害貸付金を利息免除とし、水呑百姓、困窮者へ籾二〇〇俵、金子八〇両余をほどこしている。