一 寺子屋と文化

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 川中島地区の主な寺子屋師匠は、表3のとおりである。ほかに丸田教秀・池田武八郎・林部官左衛門・北沢市郎右衛門(和算)・丸田助右衛門(謡曲)・北沢亀太(算法)などがいた。また、絵画の近藤南喬(なんきょう)(名古屋生まれ)は文化年中(一八〇四~一八)今里に来て、更級家の知遇を得て絵筆をふるった。塩入仲熈(ちゅうき)(文政四年・一八〇七~明治十一年・一八七八、四ッ屋)は江戸に出て将軍徳川慶喜(よしのぶ)の祐筆となり、帰郷後多くの門人を教えた。化政(かせい)期(一八〇四~三〇)に活躍した俳人宮本虎杖(こじょう)(戸倉町)の追善句集「花野集」には今里六人・北原五人・中島一四人の名がのっている。幕末期の四ッ屋には中条大治(雅号素行)・両角三太夫・高野広馬(雅号真遜)などがおり多くの門人を教えた。


表3 川中島地区の主な寺子屋師匠

 つぎは坂口与左衛門(古森沢)の寺子屋の授業などのようすである。授業の順序は、まずひらがなやカタカナで五十音を学んだ。そのあと、手紙の書きかた、信濃の郷名・郡名、同じく物産名、。日本中の国名、諸役人の官名、往復書簡や日常生活上の諸事実などを習った。それから読書となり実語教・古状揃・庭訓(ていきん)往来・御成敗式目・三宇経・千字文(せんじもん)とすすみ、さらに学習を望むものには孝経・四書・五経や唐詩選が教えられた。通常は七歳から十二、三歳まで学んだ。卒業年限は一五歳であった。師匠への謝礼は、入門時には喰籠(じきろう)に赤飯、煮染二重、酒一升などを持参し、年始・五節句に銭二四文から一〇〇文まで、歳暮に金一朱から金一分までを家庭の経済状況に応じて納めた。