一 日中戦争から敗戦のころ

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 昭和十二年(一九三七)日中戦争が勃発した七月から十一月六日までのあいだに、川中島村から五〇人が出征した。本町区では壮行式(餞別贈呈)を天神社前でおこなったのち、参列者一同は川中島駅まで行き、手に手に日の丸の小旗を振って出征兵士を送りだした。その年の十二月には華北で戦死した本町区二人の村合同葬が小学校の校庭でおこなわれた。同十六年十二月には太平洋戦争が始まり、国民は一段ときびしく苦しい戦時体制の生活を強いられた。本土空襲の危機がせまった同十九年四月には、東京都足立区千寿第四国民学校の疎開児童(三~六年生)一〇八人が、円光寺・円城寺・浄蓮寺に分宿し、川中島国民学校で学んだ。学童は終戦後、同二十年十一月四日に全員が帰京した。川中島地区の日中戦争・太平洋戦争の戦没者は、今里四九人・上氷鉋四六人・四ッ屋四三人を数える。同二十年八月十五日、未曾有(みぞう)の犠牲と大損失をもたらした戦争は終わった。国民は戦後しばらく深刻な食料不足やインフレなどで、どん底生活を余儀なくされた。