二 行政区域の変遷

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 江戸時代の青木島地区は、大塚・綱島(つなしま)・青木島・丹波島の四ヵ村からなっており、いずれも松代藩領だった。明治五年(一八七二)、戸籍区の改正により、丹波島村は第三六区に属し、他の三村は第三七区に属した。同七年に大区・小区制が施行されると、青木島村と丹波島村は上氷鉋村・下氷鉋村とともに北第一六大区第六小区を構成した。大塚村と綱島村は、小島田村とともに北第一六大区第七小区に属した。

 同八年、丹波島村は青木島村に合併した。同十二年、大区・小区制が廃止され、長野県下には一六郡が置かれた。青木島地区の村々は、更級郡に属した。明治二十二年、市制・町村制が実施されると、青木島地区の青木島・大塚・綱島の三村も合併して、青木島村となった。当初大塚・綱島は両村合併を望み、青木島との合併を望まなかった。県は、いずれも二〇〇戸内外の小村で、しかも青木島は両村と合併しなければ他に合併するところがないとして、命令で合併させた。

 この青木島村は七〇年近くつづいたが、昭和三十年(一九五五)、青木島村・真島村・小島田村・稲里村は合併して、更北(こうほく)村となった。昭和四十一年の大合併で、青木島地区は長野市の一部となった。