大塚館跡・町田氏館跡ともよばれている。現在は更北中学校の校地の一部となっており、「大堀館趾(し)」と書かれた石碑が立っているばかりである。かつては幅三間半(約六・四メートル)、高さ二間半(約四・五メートル)の土塁が四方を囲み、土塁内は四五間(約八二メートル)四方あったという。土塁の外側には、幅四間(約七・三メートル)、深さ九尺(約二・七メートル)の堀がめぐらされていた。大堀館の名はこの堀に由来するのだろう。また大堀山といわれており、大塚の地名はそこから出たらしい。
伝えによれば、応安元年(一三六八)に町田盛実によって築かれたという。天文(てんぶん)七年(一五三八)には、上諏訪社の造営を負担する大塚郷の代官は町田五郎兵衛・同新介であった(『信史』⑭)。弘治元年(一五五五)、第二回目の川中島合戦で、武田信玄はここに本陣を置き、犀川をはさんで上杉謙信と対陣した。四ヵ月も対陣したのち、今川義元の仲裁で両軍は兵を引いた。武田氏滅亡後、町田氏は帰農したという。現在も周辺には町田姓が多い。