於佐加(おさか)神社 丹波島 ①祭神 健御名方神(たけみなかたのみこと) 八坂斗売神(やさかとめのかみ) ②由緒 丹波島の産土神(うぶすながみ)。丹波島宿の西端にある。もとは諏訪社で、丹波島諏訪河原にあった。慶長十六年(一六一一)丹波島宿駅設立とともに現地(北町裏)へ移した。社殿は安永五年(一七七六)の建立という。宿場の繁栄を示すりっぱな社殿である。境内社には金比羅(こんぴら)社・天満社・秋葉社・養蚕社がある。もと丹波島村のなかにあった神社を明治四十一年(一九〇八)ころ合祀(ごうし)したもの。また境内に二基の筆塚(金沢彦三郎・同重左衛門一基、柳島寛休・同寛兵衛一基)がある。
文化九年(一八一二)九月十三日、境内で大関雷電為右衛門ら江戸相撲一行の相撲が興行され、松代藩主真田幸貫(ゆきつら)が観覧した。九月五日から七日間善光寺境内で興行した一行をよんできた。六連銭の紋のついた紫の絹の幕を張ったので、力士たちは「細川侯の相撲の場へ出たようだ」と褒(ほ)めた(『朝陽館漫筆』)。
諏訪神社 青木島宮崎 ①祭神 健御名方神 ②由緒 青木島の産土神。明治四十年の政府の神社統合計画により、氏子青木島の戸数が少なく、村社として維持できないとして、丹波島の於佐加神社との合併を強く求められた。氏子は統合に強硬に反対し、神社に耕地を寄付し、明治四十年に拝殿・祝詞(のりと)殿を新築、立派に維持できることを認めさせた。陳情には日本刀をもっていったともいわれる。青木島地区の人口が急増し、祭礼のとき、神社から遠い地区は地元から冷遇されると不満を抱き、青木島北組(青北)は別に神社をつくって分離した。しかし、丹波島橋北部の旧北国街道の川崎町東側の数家は、もと青木島分であったので、今も当社の氏子としてお札をうけている。
綱島神社 綱島中土手添(なかどてぞい) ①祭神 健御名方命 八坂刀売命(やさかとめのみこと) ②由緒 綱島の産土神。大同(だいどう)二年(八〇七)四月に勧請(かんじょう)されたと伝えるが、定かではない。もとは諏訪社であった。大塚久新河原集落の多くはこの神社の氏子で、これは洪水により綱島から大塚へ移った人びとの子孫だという。
昔、保科清水(せいすい)寺観音堂建立にあたり、大工某がこの神社の建築の依頼をうけ、昼寝の時間をさいてこの神社を建てたので村人が昼寝の宮とよんだという。はじめ、狐巣沖(きつねのすおき)にあったが、洪水で流失、中土手添に移転、再築した。社地のほかに朱印地があり、これを小作に出して、毎年二五俵の年貢が入ったので、財政に余裕があり、祭りには手づくり花火が奉納された。昭和二十一年(一九四六)火災にあい、青木島小学校の奉安殿を移して本殿とし、同四十四年、拝殿も建てられた。
大塚神社 大塚 ①祭神 健御名方命 八坂刀売命 ②由緒 大塚の南部、国道一九号の北にあり、諏訪社だった。大塚の産土神。明治四十一年、旧大塚村内の三神社を合併して大塚神社と改名した。境内社三社はそれぞれ旧社殿を移し、もとの氏子が奉仕している。伊勢社(皇大神宮社)は社殿の右(東)にあり、もと南組にあった。氏子は宿・不動寺および久新河原の一部。社宮司(しゃぐうじ)社は社殿の左にあり、もと大北(おおきた)にあった。氏子は今も大北。熊野社(熊野三社)はもと新町(あらまち)にあった。氏子は新町・北島。