むかし犀川を丹波川ともいい、それが村名の起こりという。近世初期、六七八石余あった。慶長十六年北国街道の宿に指定され、「丹波島町」あてに「伝馬宿書出(かきだし)」という掟書(おきてがき)があたえられた。「丹波島町」といわれているから、それ以前に宿ができていたことがわかる。
慶長十五年には川中島地方の領主松平忠輝(家康の六男)の重臣大久保石見守(いわみのかみ)長安から、宿本陣柳島太郎左衛門にあてて、逃亡者を呼びかえすよう命令が出ている。支村だった太子村・押切村も丹波島に合併された。これらの村はいずれも一時亡村になったが、復活した。場所は犀川の対岸の、久保寺村つづき(安茂里)にあった。宿場は六町(約六五四メートル)、幅四間(約七・三メートル)の道が東西にまっすぐに通り、西の突き当たりに於佐加(おさか)神社がある。北国街道はそこで直角に折れて南へすすむ。丹生寺の東隣からは松代への道が通じている。岸囲(きしがこい)・国役(くにやく)・宿囲(しゅくがこい)の三つの堤防に守られていた。宿の細部については、交通のところで述べる。