綱島村

702 ~ 703

青木島の東に連なり、南は大塚、東は川合(かわい)(真島町)、北は犀川をへだてて川合新田(芹田)と接する。戦国時代には綱島氏がおり、綱島館を根拠地としてこの地方を支配していた。渡し場もこの地区にあったのだろう。綱島の地名も綱を張った渡し場からきたのではなかろうか。弘治元年(一五五五)の第二回の川中島合戦に、武田信玄は大塚を本陣とした。本陣が主要街道を大きくはずれているはずはないので、戦国時代、善光寺と海津(松代)を結ぶ道や北国街道は、綱島を通っていたと考えられる。長享(ちょうきょう)二年(一四八八)の『諏訪春秋宮造宮次第』に見えるのが初見で、その後数回、造宮帳に見えている。綱島豊後守(ぶんごのかみ)は上杉景勝(かげかつ)に属し、荒砥(あらと)城(上山田町)在番、稲荷山(いなりやま)城(更埴市)修理などをつとめ、文禄(ぶんろく)三年(一五九四)には石高七三六石、配下の士四四人だった。

 村高は慶長七年(一六〇二)には九九三石余、宝暦五年(一七五五)九四一石余だった。ところが、川欠(かわかけ)が多く、この年、村から出願して検地を受けた結果、有高は一一三石余、本田の七八パーセントは川欠になっていた。本田の約四〇パーセント、三七八石余は出浦(七〇石)・玉川・山越(五〇石ずつ)等の知行主(ちぎょうぬし)の領地になっていたが、その約八五パーセントは川欠で有地は五五石にすぎなかった。出浦は寛永(かんえい)元年(一六二四)には、この村で三〇〇石の知行地をあたえられていたが、それが七五石に減少、しかもその大部分は川欠になっていた。戸数・人口も減少し、安政三年(一八五六)二六軒、明治元年(一八六八)二五軒、文化六年(一八〇九)一二七人、明治元年一一三人だった。弘化四年(一八四七)の善光寺大地震後の洪水では全耕地流失、一部住民は大塚に移った。明治十三年には戸数三九戸、人口一六五人と、ようやく回復に向かっている。

 また近世にははじめ安養寺・善竜寺・明桂寺・浄円寺の四ヵ寺があった。現在、曹洞宗来福院がある。