青木島村のうち、大塚だけは犀川から少し離れているので、水害がやや少なく、土地も肥沃であった。大堀館は武田信玄の本陣になったほどの大きな館であった。綱島と同じく長享二年の『春秋宮造宮次第』に見えるのが初見である。
石高は近世初期に九四九石余、『正保郷村帳』に一〇二一石余、『元禄郷帳』に一〇三六石余としだいに増えている。人口も多く、村役人も東組・西組が別々になっていた。戸数は安政三年に東組五七軒、西組六六軒、明治元年東組六三軒、西組七三軒、人口は文化六年東組三一二人、西組三三四人だった。
神社は諏訪社(現大塚神社)・伊勢社・熊野社・社宮司社があり(現在大塚神社に合祀(ごうし))、寺は浄土宗長徳寺・同安養寺・真言宗不動寺がある。安養寺は綱島から移転したものといい、不動寺には鎌倉前期の不動明王がある。ほかに廃寺になった寺・庵(あん)が三寺あった。枝村に近世初期に北島村・大北村・久新河原村・南村があった。