大字・町・集落名には、由緒あるものが多い。つぎにその主なものを説明する(主に『更北地区の地名』による)。
三本柳 青木島・綱島・大塚の用水中沢堰が、太田堰・瀬戸川堰に分かれる五〇メートルほど上流に三本の柳があった。弘化四年(一八四七)大地震後の洪水で、この三本の柳が洪水をせきとめ、丹波島の損害を軽くした。その後万延(まんえん)元年(一八六〇)の大洪水に倒れ、堤防修復工事に利用された。昭和六十二年から始まった約四八ヘクタールの土地区画整理事業で開かれた団地と小学校に、三本柳の名がつけられた(『更北地区の地名』)。
押切・太子 丹波島の対岸、安茂里側に押切河原・太子河原などの小字がある。丹波島宿をつくるとき、押切村・太子村の村民を宿へ移したという。もと青木島村分だったが、長野市との合併により昭和四十一年、安茂里分になった。太子河原には長野工業高校がある。
五十里(いかり) 各地にある地名だが、怒り神(雷神・菅原道真(みちざね))を祭る地があったためか。集落から離れた場所、湿田地帯などをあらわす地名ともいう。昭和四十年、県企業局により五十里団地が造成された。
鍛冶沼 丹波島橋の北端にあり、元禄十四年(一七〇一)洪水で流失、明治になって再興、左岸は通称川崎町といった。平成十年に若里地区に編入された。
舟着場(綱島) 長野大橋の上流約一〇〇メートルにあり、飯山方面から川舟が荷を運んでいた。
面割・百聞割(綱島) 国道一八号の東側、市場団地へ行く道の北側を面割(つらわり)といい、畑地を各戸に割りあてた地。百間割も割地制度から出た地名。割地制度は対岸の少し下流屋島地区(朝陽)では現在もおこなわれているが、綱島ではおこなわれていない。
小中島・ゴショエン・寺町 小中島は平安時代末期に成立した九条家領の荘園。ゴショエンはたぶん御荘園だろう。寺町はこの地に五ヵ寺もの寺があったことからついた地名だが、現在はみな移転した。青木島地区では安養寺が大塚に、善竜寺が綱島の大塚境に移っている。
四十二石 大塚の北端の不毛の地を、役人がだいたいの見積もりで四二石として、地名になったとか、割地の年貢からきた地名とか、各種の説がある。昭和四十年代に造成され、県営青木島団地になった。