丹波島宿は、特殊権利をもつ六六軒(表(おもて)百姓)と帳下(ちょうした)身分の間脇(まわき)百姓とに分かれていた。天明二年(一七八二)当時は、宿は本陣等七軒が伝馬役免除、五九軒が伝馬役をつとめ、間脇百姓は三六軒だった。ところが、間脇百姓は無賃の伝馬手伝いに出ないで、賃銭のかせげる市村船渡し場の瀬越しなどにばかり出るというので、村役人から松代藩へ訴え、役人の出張調査があり、四月、間脇百姓は仲裁に入った丹生寺(たんしょうじ)につぎのような一札を入れた。これは、かなり関脇百姓の要求を入れたものだった。
① 一人につき年中二通行だけ宿人足をつとめる。
② 往来御用・松代御用は村役人のさしずどおり出るが、表役の人が出切ったときに限る(以下略)。