丹波島村は洪水にあいやすく、大洪水のあとには隣村との境界が明らかでなくなりがちで、よく紛争がおこった。ことに丹波島宿を形成した住民らの住んでいた押切村・太子村・鍛冶沼などは、中世には更級郡にあり、近世初期の犀川本流の変化により川北になってしまったらしく、近世にも川北に住むものがあり、土地の大部分はそれらの人びとが所有していた。
押切村・太子村の地に、本上河原・押切河原・二経塚・太子河原・狐島などという地がある。ここに高一〇石余の耕地があった。文化・文政(一八〇四~三〇)のころ洪水が多く、これらの地はおおかた流失、天保(てんぽう)三年(一八三二)にようやく復旧したので、その地を久保寺村民に小作地として貸与し、のち永小作とした。丹波島宿は田畑が荒廃したので、松代藩士袮津左盛から川北の地を抵当にして七〇〇両を借りた。のち丹波島村は負債を返し、明治後、川北の地の所有権を主張した。久保寺村は、これらの地は藩へ年貢を納めており、廃藩後は耕作民の所有であり、土地も久保寺村に属すると主張した。丹波島村は明治九年長野裁判所に提訴し、丹波島の勝訴になった。久保寺村はこれを不服として上級裁判所に上告、同十八年、ようやく丹波島の勝訴が確定した。