文化四年(一八〇七)犀川の大洪水があり、丹波島村と上氷鉋村とのあいだに境界争いがおきた。場所は村の用水小山堰(せぎ)に沿う現在の三本柳小学校の地である。上氷鉋村は旗本松平氏の塩崎知行所領であるから、現地ではかたがつかない。丹波島村では幕府の評定所へ出訴した。同八年、双方の主張を勘案した判決が下った。丹波島の主要用水小山堰については、用水路浚(ざら)いなどの節は、上氷鉋村を立ち会わせ、丹波島村がすることなども決められている。小山堰は上氷鉋・中氷鉋・丹波島・青木島・綱島・上真島・下真島・川合八ヵ村の用水だったが、最上流の上氷鉋が強い権利をもっていたらしい。
なお、丹波島は宿でとかく他村との紛争がおきやすいので、紛争にそなえて、石尊講(しゃくそんこう)という講(相模大山(さがみおおやま)(神奈川県伊勢原市)の石尊大権現をまつる)をつくって、平生(へいぜい)から銭を集め、訴訟事件にそなえていたという(文政六年塩崎村訴状)。