丹波島では文化七年(一八一〇)桑を植えはじめた。この年、桑の苗を盗まぬという誓約書がつくられ、一〇二人が連判している。明治十三年には繭三五〇貫、生糸七五貫を生産、大塚は繭三八五貫、生糸一二貫を生産している。明治四十年の一府十県共進会で青木島の小池勘之助が桑で、隣村真島の人が果樹で入賞しており、青木島の桑の名声が高かった。
注目すべきは蚕種で、青木島一〇〇〇枚、大塚八五〇枚を生産、ほとんどを東京・横浜へ出荷している。しかし、隣村小島田(おしまだ)の三八五〇枚にはおよばない。明治四十三年の蚕種産額は更級郡では上山田・力石・真島・青木島の順になっており、二七七八枚を産している。また藩で奨励した杏仁(きょうにん)が大塚二五貫、綱島一五貫を産し、全部長野へ送られた。