丹波島・綱島は犀川端のため漁業がさかんであった。丹波島宿本陣は初鮭(はつざけ)を加賀前田藩主へ献上するのが恒例になっており、三代利常の礼状が残っている。近世にはさけやますが一〇〇〇本とれるごとに一本ずつ大漁祝の幟(のぼり)を立て、さけの千本幟といった。それが何本も立てられたという(『丹波島宿駅史』)。明治初年にも青木島でどじょう二〇貫、さけ八〇〇尾、ます九〇〇尾の年産があった。
昭和四十七年(一九七二)には米四四七四石(供出一六四七石)、大麦六四五石(同二九〇石)、小麦一八八三石(同一三二二石)、繭三七五五貫、リンゴ一一万二〇〇〇貫を産している。このころ、まだ農業がさかんで、二毛作地の利を生かして大麦、小麦の生産も多く、また、リンゴが急成長していることが目立つ。
その後は急激に都市化し、平成十年(一九九八)には青木島地区の一五歳以上の就業人口一万一九二五人のうち、農業は二八一人、二パーセントにすぎない。