丹波島宿

711 ~ 712

慶長十六年(一六一一)九月に矢代(更埴市)以北の各宿とともに、宿に指定された。その一年前の同十五年六月には、もと丹波島にいて他所へいっているものを呼びかえせと命じられている。犀川左岸にあった太子・押切の両村も丹波島に付属し、移住させた。東西六町(約六五四メートル)、幅四間(約七・三メートル)のまっすぐな道をつくり、その両側へ、間口八間、奥行二二間の屋敷をほぼ均等に区画し、「六十六判」といわれる町ができた。南北両側の家の裏手には、用水を通した。本陣・脇本陣・問屋は広い敷地をもっていた。中央部北側に問屋、二軒おいて東に本陣、その前に道をへだてて丹生寺があり、丹生寺の東隣から松代往来が入っていた。松代へはほぼ幅二間半(約四・六メートル)の道がつづいていた。宿の西端には於佐加(おさか)神社が東面して宿を守っていた。

 元和(げんな)九年(一六二三)の検地帳によると七二軒あり、六十六判といっても多少の変動はあった。明治後も六十六判の人びとが「六六会」という会を組織している。


写真6 慶長16年に「丹波島町」が宿に指定された文書
(本陣柳島家蔵)


写真7 丹波島宿問屋柳島家「明治天皇丹波島御膳水」の碑が立つ。昭和53年4月撮影。この年改造された