丹波島宿で使用していた商荷人馬については、天保(てんぽう)七年(一八三六)から弘化三年(一八四六)にいたる一〇年間の記録がある(『市誌』⑬)。人足は天保九年の一万七四九人が最高、同七年の五八五五人が最低で平均八〇五四人、馬は天保九年の七一七九匹が最高、天保七年の四七四九匹が最低で、平均六二〇九匹である。天保七年、同八年は舟留めの日が一二二日、一一〇日と年間の三分の一にもなったから、通行が少なかった。
丹波島宿を通り、問屋で口銭を払う商人荷は上り荷一年平均四三四五匹、下り荷同八〇〇匹で、上り荷が下り荷の約五倍、善光寺宿では六倍である。善光寺宿の馬数が丹波島より少ないのは、問屋へかからない馬が多いからだろう。善光寺宿を通る商人荷の上り荷は大部分が丹波島行きだが、一部(約一七パーセント)は長沼行き(大笹街道経由上州方面行き)である。上り荷の代表的なものは塩だった。塩は一駄につき四〇文ずつ問屋へ払うことになっていたが、自家用は四文でいいことになっていた。しかし、文政九年(一八二六)には、近郷のものが年数十駄も自家用と称して安く通ると問屋が取り締まりを強くしている(『県史近世』⑦)。また、松代へ送る塩は口銭をとらぬように松代藩から指示してあり、その礼銭として職奉行と検断(問屋)伴(ばん)家から年に金一〇〇疋(ひき)(一分)ずつが届けられていた。
丹波島渡と犀川には大きな流れが二筋、小さな流れが二筋あり、南側の二筋は綱を張って、船頭がその綱をたぐって渡し、小流には仮橋がかけてあった。しかし洪水のたびごとに川筋が変わった。渡し賃は人一〇文、馬一六文だったが、近隣の諸村の人は繋銭(つなぎせん)を村で納めているので、無料だった。舟番所は対岸にあった。
水かさが増すと川留めになり、通行者は松代通りか小市(安茂里)に回らなければならない。川留めの日数は天保七年から一〇年間の調査によると、多い年は一二二日、少ない年は二八日、平均約六〇日だった。