犀川・千曲川は洪水が多かった。慶長十九年(一六一四)から明治四十四年(一九一一)まで二九八年間の洪水は八九回で、およそ三年に一回は更級郡のどこかが洪水に襲われている(『更級郡誌』)。青木島地方の主な水害は、つぎのとおりである。
① 万治(まんじ)三年(一六六〇)八月、元禄(げんろく)九年(一六九六)八月、犀川洪水、綱島村合二五三石荒れ地化。
② 元禄十四年(一七〇一)八月、千曲・犀川大洪水、青木島村鍛冶沼集落流亡、綱島村三九六石余荒れ地。
③ 元文(げんぶん)四年(一七三九)八月、犀川洪水、綱島村四五〇石余荒れ地。明桂寺流失。
④ 寛保二年(一七四二)七月、戌の大満水。田畑全部浸水、隣村死者多し。
⑤ 宝暦七年(一七五七)五月、両川大洪水、丹波島・青木島被害多し。松代藩、幕府から一万両を借り入れ、翌年から堤防修造。
⑥ 明和二年(一七六五)千曲川・犀川氾濫、被害④⑩につぐ。
⑦ 天明七年(一七八七)両川洪水、大塚村安養寺罹失(りしつ)、現在地へ移る。丹波島宿、藩の救済をうける。
⑧ 寛政元年(一七八九)六月、両川洪水、丹波島・真島両村で二五軒流失。綱島村一一〇石余荒れ地。丹波島等七ヵ所の生命線たる八番堤防上大締切決壊、修復工事申請。
⑨ 文化四年(一八〇七)六月七日、四ッ屋村の犀川堤防が決壊して上氷鉋・丹波島などは大被害をうけた。耕地の境界がわからなくなって、上氷鉋村と丹波島村との境界争いがおき、同八年、幕府の裁許で解決した。
⑩ 弘化四年(一八四七)四月十三日、地震崩壊の湛水決壊して大洪水。丹波島一五〇戸潰れ、死者四人。
⑪ 万延元年(一八六〇)五月、丹波島堤決壊し、青木島・大塚・綱島冠水。綱島村は復旧田地を失う。
⑫ 明治元年(一八六八)四月・五月、両川七回出水、用水取入口決壊して田植えできず、飲用水に苦しむ。
丹波島宿には、外から岸囲(きしがこい)・国役(くにやく)・宿囲(しゅくがこい)の三堤防があった。さらに上流に八番堤があり、これが決壊すると青木島・川合地区全部が危険になるので、安政二年(一八五五)に国役普請を出願、同五年に国役堤が完成して村民は狂喜した。この国役堤防の上で松代藩は大砲の訓練をした。現在の大堤防は大正七年(一九一八)に着工、昭和十六年(一九四一)にようやく完成。青木島地区は長年の水害から解放された。