寺子屋と師匠

717 ~ 718

柳島寛兵衛可映(春堂)は文政~嘉永(一八一八~五四)ころ長く丹波島で寺子屋師匠をつとめ、およそ八〇人の門下を教育した。嘉永三年七二歳で没し、文久三年(一八六三)門弟たちが於佐加(おさか)神社境内に筆塚(ふでづか)を建てた。その子市郎右衛門(礼斎)も父を継いで寺子屋師匠となり、子弟およそ二〇〇人におよんだ。明治五年(一八七二)、六〇歳で没し、父の筆塚に追記された。金沢彦三郎治喜(呉竹)は丹波島に生まれ、名主をつとめ、のち寺子屋師匠となり、門人百余人、天保十年(一八三九)八二歳で没した。その孫の重左衛門治国(朝雀庵(ちょうじゃくあん)露竹)も明治六年六二歳で没するまで寺子屋師匠をつとめ、門弟一六〇人におよんだ。生前の文久三年門人が於佐加神社境内に祖父の筆塚と連記の筆塚を立てた。青木島の桑原法海も明治十八年に没するまで師匠をつとめた。

 大塚の宮下昇之助は天保十二年から明治六年まで、井上玄洞は天保十年から明治五年までそれぞれ寺子屋師匠をつとめた(『県史近世』⑦一九〇三)。大塚の宮下松岳は漢学詩文に長じ、寺子屋から学校まで三二年間教育にたずさわり、明治二十八年、熊野社に頌徳碑が建てられた。