文化人

719 ~ 719

貞享(じょうきょう)元年(一六八四)大塚の町田儀右衛門は子孫のために家訓を書いた。そのなかに、学問はまず四書五経をもとにし、学習は『大学』・『孟子(もうし)』・『論語』の順にすること、つぎに『中臣祓(なかとみばらい)』、『日本書紀神代巻』、などを学ぶこと、仏教は学ぶべきでないことなどを述べている。これは一七世紀後半から契仲(けいちゅう)等によって唱えられてきた国学の影響をうけた思想で、当時の最新思想だった(『県史近世』⑦六九一)。青木島の長谷部連は佐久間象山に師事し、漢学・詩文に長じ、私塾を設けて青年を教育した。長く戸長をつとめ、ことに明治初年の対岸久保寺村との境界争いの解決に尽力、ついに勝利にみちびき、郷土の恩人と仰がれた。