四ヵ村合併と更北村の誕生

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昭和三十年(一九五五)一月一日、稲里村、真島村、小島田村、青木島村が合併して更北(こうほく)村が発足した。「小島田」の村名は更北村の大字に継承された。新村名の「更北」は更級郡の最北部に位置する四ヵ村の団結と、四ヵ村組合立更北中学校の校名が住民に定着し、親しまれていたことなどにより、更北村とした。

 もともと稲里村、真島村、小島田村、青木島村および川中島村、西寺尾村の六ヵ村は更級郡の戊(ぼ)組として、諸行事をともにしていた。また、小山堰・鯨沢(けいざわ)堰の両水利組合によって、共同して灌漑(かんがい)用水の維持管理を実施していたことなどもあって、住民相互のあいだにも親交があった。とくに稲里村、真島村、小島田村、青木島村は共同して伝染病予防組合を組織し、行政的協力関係は深いものがあった。昭和二十六年四ヵ村組合立更北中学校の開校が契機となって、四ヵ村合併が理事者や住民のあいだでも話題にのぼるようになった。同二十八年町村合併促進法が公布施行されて、各村とも合併実現に向けての検討がすすめられた。同二十九年に四ヵ村合併協議会が結成された。小島田村では三ヵ村の南部に位置し、長野市域と隣接していないことなどもあって、合併について理事者も住民も積極的であった。稲里村や真島村の一部では長野市への合併を望む声もあり、これらの住民は大型バスに分乗して県議会に陳情する場面もあったが、同三十年一月一日、面積一八・一三平方キロメートル、人口一万二四一九人の、村としては県下第一の人口を擁する更北村が発足した。