昭和二十九年(一九五四)、長野市が近隣一〇ヵ村を合併するさいも、更北村の前身の青木島・稲里・真島・小島田の四ヵ村は呼びかけをうけた。しかし、稲里と真島の一部には長野市との合併を望む声もあったが、合併の機運は熟さず、国の純農村モデルケースとして四ヵ村が合併して同三十年、更北村となった。その後、更北村は同三十七年、三十九年と篠ノ井市・川中島町・豊野町・松代町・七二会村・更北村を対象にした長野市の第一次合併計画による合併の意向を打診された。同三十七年の合併申し入れについては、更北村が軌道に乗りはじめたころで、住民の大勢は合併反対の意向が強く合併は実現しなかった。同三十九年の長野市の再度の申し入れのころには、更北村から二〇〇〇人が長野市に通勤し、人的にも経済的にも長野市への依存度が増していた。こうしたことから住民の態勢として合併を受け入れる方向に傾いていた。このためとくに合併反対の声もなく、同四十一年七月四日、臨時村議会で合併案件が全員一致で可決され、十月十六日長野市に合併した。小島田は町名をつけて長野市の大字「小島田町」となった。