三 「小島田」の由来と村名

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 古代小島田は「頤気(いけ)郷」に属し、『延喜式(えんぎしき)』記載の「頤気神社」は町内にある頤気神社であるという。古代の郷名は、地籍名「頤気沖」、集落名「頤気」として継承されている。小島田は中世には「鴛間田(おしまだ)之郷」「小嶋田之郷」に属した。近世になって寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)ころに上小嶋田・下小嶋田の二ヵ村に分けられた(『町村誌』)ときもあったが、いずれも「小嶋田」の地名が用いられ、現在にいたっている。

 「小嶋田」の地名は、永徳二年(弘和二年、一三八二)小笠原清順譲り状の「譲与所領等、子息次郎長秀、一所信濃国小嶋田之郷」をはじめとして、明応九年(一五〇〇)、天正(てんしょう)六年(一五七八)に諏訪下社春秋両社に奉仕した郷に「小嶋田之郷」がみられる。戦国時代ころになると「小嶋田」の地名は、文献にしばしばみられるようになった。永正(えいしょう)十年(一五一三)嶋津貞忠は、川中島の状況を越後守護長尾為景に「村上、香坂領の中に候小嶋田の地、中野牢人相集ひの由……」云々(うんぬん)と報告している。また、永禄九年(一五六六)には、武田信玄は「小嶋田の内、諏訪神領拾六貫の所……」云々と小嶋田の地を諏訪上社の守矢信真に安堵(あんど)している。武田家滅亡後、川中島が上杉景勝領になると、その家臣芋川親正(ちかまさ)は「小嶋田之内、飯縄(いいづな)領当申五年より前々の如く寄進せしめ候」と飯縄神社に小嶋田の地を寄進している。また、「鴛間田」の記載は、長享(ちょうきょう)二年(一四八八)の諏訪下社『春秋之造宮次第』に「御瑞籬(みずがき)四十三間之内、弐間鴛開田・弐間氷鉋(ひがの)」とある(『信史』⑨)。

 「小嶋田」の地名は、戦国時代ころまで、犀川の一支流の一つであった小嶋瀬(鯨沢堰・紙屋堰の元)の乱流により島状に取り残されていたところからついたという(『更級郡誌』)。往時の犀川の乱支流に由来するのであろうか、中村沖地籍に小字「古犀川」がある。また、流路の移動により、旧流路は河跡池や湿地となり、水鳥のよい餌場(えさば)になった。「鴛間田」の「鴛」は水鳥の「オシドリ」、「間」は美称の「真」の当て字か。「田」は「所」「場所」の意、したがって「オシマタ」は「オシドリの飛来する自然に恵まれた麗しい地」から出たとも考えられる。