小島田地区は釜屋組・荒屋組が分村したのちの明治二十四年(一八九一)は、戸数二三九戸・人口一四六二人、昭和二十五年(一九五〇)戸数三四九戸・人口一九八二人であった。六〇年間に戸数で四六パーセント、人口で三六パーセント増加したにすぎず、平均年増加率は戸数、人口ともに一パーセントを割っている。こうした人口の停滞傾向は長野市合併以降もつづいている。新長野市が発足した昭和四十一年、小島田地区は三五四世帯・人口一六四八人、平成十一年(一九九九)十月一日時点では、五二五世帯・人口一七八一人(『市統計書』)と三〇年余すぎても、人口は八パーセント増えたにすぎない。これにたいし、同じく旧更北村であった青木島地区では三倍、稲里地区では二倍と人口は飛躍的に増加している。道路条件に恵まれ、しかも平坦地である小島田地区の人口の停滞は、公共事業による団地造成がなかったこと、都市計画法にもとづく区画整理事業が実施されなかったこと、市街化調整区域のため、農地の宅地などへの転用が規制されていることなども要因となっていると思われる。