小島田地区で検証されている遺跡には田中沖遺跡と花立遺跡がある。
田中沖遺跡は、小島田町の八幡原を東限とし、その西方に伸びる帯状の田中沖地籍の微高地にある。土地の人が西原とよんでいる地域で、その西隣に神明広田(田中沖Ⅱ)遺跡がある。また、発掘調査はされていないが、この遺跡北方につづく小島田郵便局にかけての微高地にも露出した土器の破片が散見される。この遺跡は国道一八号の新設工事により昭和五十三年(一九七八)と五十四年の二次にわたって長野市教育委員会によって緊急発掘調査が実施された。対象調査面積一八〇〇平方メートル内に、古墳時代中期から平安時代末にいたる住居跡三〇軒、柱穴(ちゅうけつ)群、土坑(どこう)群八基、溝跡三本などが検出され、大室古墳群や、のちの御厨(みくりや)を支えた集落遺跡として注目されるようになった。弥生時代後期の甑(こしき)・甕(かめ)・高坏(たかつき)などの土器片も採集されている(『田中沖遺跡Ⅱ』)。
花立遺跡も田中沖遺跡と同様な立地上にある。現在は千曲川の堤外地になっているが、昭和二年に現在の千曲川堤防が築かれるまでは、花立の集落があったところである。この遺跡は、犀川扇状地の中州であり、また、千曲川の厚い沖積土(ちゅうせきど)に覆われている地形である。ここからも若干の弥生時代後期の遺物が採集されている。櫛描(くしがき)波状文のある甕形土器片と丹彩の高坏形土器、丹彩(にさい)の壺形(つぼがた)土器片が、耕土の深掘りのさいに出土している(『更埴地方誌』)。