川中島の戦い

736 ~ 737

川中島の戦いは、天文(てんぶん)二十二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)にかけて、信濃川中島における甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信との五回におよぶ合戦の総称である。なかでも第四回の戦いにあたる永禄四年八幡原の合戦が最大の激戦になった。『妙法寺記』は「この年(永禄四年)の十月(九月の誤り)十日に、晴信(信玄)と景虎(謙信)合戦になられ候て、景虎ことごとく人数打死にいたされ申し候、甲州国は晴信御舎弟、典厩(てんきゅう)(信繁)打死にて御座候」とある。また『信濃奇勝録』に「その時の戦いは東福寺・中沢より始まり、荒堀・杵渕(きねぶち)・水沢この辺大戦なり、それより八幡原・陣場河原は別して烈しき大戦なり」とある。この激戦で武田方は、武田信繁・山本勘助・室住虎定・初鹿野(はしかの)忠次をはじめ、多くの将兵を失った。

 永禄四年八月、武田軍二万、上杉軍一万三〇〇〇の軍勢が川中島に出陣した。九月九日の夜陰、高坂弾正(こうさかだんじょう)(春日虎信)を別働隊の大将として一万二〇〇〇の将兵に謙信の本陣、妻女山を攻めさせた。信玄はみずから八〇〇〇の本隊を率いて八幡原に布陣した。そして妻女山から敗走してくる謙信を待ち構えた。事前に夜襲のあることを察知した謙信は、早暁千曲川を渡り、武田軍を奇襲した。はじめ上杉軍が優勢であったが、別働隊が駆けつけたので、武田軍は戦局を立て直し、勝敗はつかず、両軍は兵を引いた。この激戦で両軍合わせて六〇〇〇人(一説には八〇〇〇人)余の将兵が討ち死にしたという。また、真偽のほどは別として、この激戦で信玄と謙信の一騎討ちがおこなわれたともいう。一騎討ちの話があまりにも有名になって、川中島の戦いといえばこの八幡原の激戦を指すようになった。その後、永禄七年八月の塩崎の対陣を最後に、両軍による川中島での合戦は終わった。

 江戸時代に入ると『甲陽軍鑑』『川中島五度合戦次第』をはじめ『絵本甲越軍記』『善光寺道名所図会(ずえ)』など川中島合戦に関する本も多く出版され、川中島の合戦は広く人びとに知られるようになった。