四 石造文化財

738 ~ 739

 小島田地区にある石造文化財は五〇基ほどで、それは寺社・公民館(堂)・路傍に散在して建立されている(『長野市の石造文化財』第三集)。このうち、庚申(こうしん)塔七基、地蔵菩薩(ぼさつ)六基、道祖神五基で、当時の民間信仰が、石造物に反映している。なお、このほかに『長野県石碑目録』記載の筆塚・頌徳碑などが一五基ほどある。これらの石造物の多くは、個人の屋敷地に建てられている。

 この地区の石造物のうち、時代の判明しているものでもっとも古いのは、市道大塚小島田線ぞいにある新城組の明暦(めいれき)(一六五五~五八)の記銘がある庚申塔である。この庚申塔は江戸初期の庚申塔の特徴である入母屋(いりもや)型石祠(せきし)で、二鶏・二猿が陽刻されている。裏面に「願主拾五人」の記銘があり、新城組の講中によって建立されたものと思われる。これについで古い石造物は、正徳(しょうとく)四年(一七一四)の常然寺参道にある笠付角柱の庚申塔で、一鶏・一猿が付随している。

 石造物にはそれぞれ逸話が語り伝えられている。主要地方道長野真田線ぞいにある中通沖秋葉社地の地蔵菩薩は、光背型で上部が欠落している。そのためか、長い間堰の止め石として使われていたという。地蔵菩薩の石像と気づいた信仰心の篤い人が、この場所に安置した。また、北村地蔵堂(北村公民館)の地蔵菩薩は、弘化四年(一八四七)の犀川大洪水で流れてきた地蔵菩薩と伝えられ、「水除け地蔵」として地域の人びとが堂を建て、安置したという。


写真4 新城の庚申塔

 古戦場の八幡社地にある「十六夜(いざよい)やまた更科の郡(こおり)かな」と刻まれた芭蕉句碑は盗難にあったため、新しく建てたものである。また、この社地の東隅にある文化十三年(一八一六)に建立された念仏塔は、小島田村の念仏講中の人たちが、下氷鉋村(稲里町下氷鉋)善導寺に滞在布教中の徳本に懇願して「南無阿弥陀仏」の六字名号を書いてもらい、それを石碑に刻んで建てたものである。この石碑の開眼(かいげん)供養は文化十三年六月十四日、徳本を迎えて盛大に挙行された(『摂化日鑑』)。野田公民館の庭には、市内では珍しい「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔がある。