一 神社

739 ~ 741

 頤気(いき)神社 頤気(いき)沖(花立)①祭神 池生命(いけぶのみこと)、相殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)・事代主(ことしろぬし)命 ②由緒 頤気神社のある地籍は、千曲川堤防沿いの頤気沖であるが、花立集落の南東隅に位置する。これは昭和初期に千曲川に新堤が築かれたため、堤外地となった一四軒の家が移転したことによる。

 『延喜式(えんぎしき)』記載の頤気神社は当社という。祭神池生命は建御名方命の子で、元慶(がんぎょう)五年(八八一)十月、従五位下に叙せられた(『日本三代実録』)。

 社伝によると、「永禄年間(一五五八~七〇)甲越の戦火により社殿はじめ、旧記・古書類ことごとく焼失して住民は四散し、祠廟(しびょう)衰微して社名堙滅(いんめつ)し、諏訪大明神と唱(とな)えきたり」とある。その後、寛政元年(一七八九)神祇管領(じんぎかんれい)吉田家より社号宗源の宣旨(せんじ)を得て、頤気神社の社名にもどった。天保(てんぽう)十三年(一八四二)、同じく吉田家より「式内」社格の宣旨をうけ、こんにちにいたっている。現社殿は、川中島の戦いで兵火にあい中村沖小字舞台に遷座してあった仮社殿を、天保十三年に現在地に遷宮するときに再建されたものである。現在もある小字舞台の五〇平方メートルほどの頤気神社所有地は、仮社殿があったところで、また、仮社殿は常然寺境内にある天満宮の社殿という。明治四十年(一九〇七)の神社統廃合令によって、中村組の白髭(しらひげ)社が明治四十一年に、新城組の伊勢社が大正二年(一九一三)に頤気神社境内へ遷宮して境内社となった。なお同名神社が松代町西寺尾にもある。北村・頤気・新城・花立・中村・中組が氏子。


写真5 頤気神社

 八幡社 新田沖(田中) ①祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)・建御名方命 ②由緒 社伝によると寛治(かんじ)年間(一〇八七~九四)白河院蔵人(くろうど)村上顕清(あききよ)が信濃国に流されたとき、広大な原野に八幡大神を勧請(かんじょう)し、創建したと伝えられ、この地を八幡原と称した。一説には、山本勘助が海津城を築いたとき、水除け八幡としてこの地に勧請したとも伝えている。その後、永禄四年九月、川中島合戦のとき、武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦になったため社殿は破壊されたが、信玄が海津城代高坂弾正に命じて社殿を再建したという。元和(げんな)八年(一六二二)松代藩主となった真田信之の篤く崇敬するところとなり、代々祭祀(さいし)、修繕などは真田家によって管理された。明治四十一年、神社統廃合令によって、野田組の諏訪社が合祀された。田中・野田が氏子。

 桜田神社 中村北沖 ①祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと) ②由緒 社伝によると、この社は往古より下小島田村の氏神「桜宮」と称し崇敬され、明治十年(一八七七)現社名に改称した。『町村誌』に「社地東西六間五尺四寸・南北七五間三尺、面積一反七畝一〇歩、下鶴巻耕地にあり」とある。明和二年(一七六五)の『下小島田村水帳』に「桜宮地東西九間・南北一三五間、面積四反一五歩、村中」とある。紙屋・中沢両組は全戸桜田神社の氏子となっているが、中村・中組の両組は桜田神社と頤気神社の氏子に分かれている。下鶴巻沖にあった桜田神社は千曲川に現在の新堤ができたために大正八年(一九一九)現在地に移転した。境内社に伊勢社・稲荷社がある。