二 寺院

741 ~ 744

 常然寺 浄土宗 頤気(いき)組 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 建立山 ③由緒 寺伝によると、常然寺は天正(てんしょう)四年(一五七六)四月、新城沖に武田家の家臣、岡沢但馬守(たじまのかみ)義久が開基となり、子の円冏(えんげい)が開山した。元和(げんな)六年(一六二〇)火災によって焼失した。同八年本堂は再建されたが、千曲川の増水害で諸堂宇は汚損荒廃した。元禄三年(一六九〇)ころ、水難を避けて現在地に仮堂を建て移転した。その後、享保(きょうほう)四年(一七一九)現在地に諸堂舎が完成し、岌残(きうざん)が中興開山となった。本尊の阿弥陀三尊像は松代藩士佐久間守衛が万治(まんじ)元年(一六五八)寄進した(『信濃宝鑑』)。新城沖を流れる寺裏堰・寺堰は荒城沖にあった常然寺からついた堰名という。なお、当寺一七世住職の門月(もんげつ)は寺子屋の師匠として慕われ、境内には弟子の建てた筆塚がある。

 境内の観音堂に安置されている観音像は、今井兼平の守護仏という。木曾義仲が元暦(げんりゃく)元年(一一八四)正月、近江国粟津(あわず)(滋賀県大津市粟津町)で討ち死にすると兼平は自刃した。その後、兼平の子孫善慶が、この観音像を笈(おい)で背負い、小島田の地に移し、文永(ぶんえい)二年(一二六五)草庵を建て安置したという(「観音堂由来記」)。この笈は「兼平の笈」として保存されている。

 また、この観音について『朝陽館漫筆』に「小島田村常然寺観音堂で童女が集まって遊んでいたとき、突然観音像の前にある鏡から光が発した。子供らは『怪物が出た、鏡から光が出ている』といいながら逃げだした。騒ぎを聞きつけた住職が行ってみると、別段変わったこともない。しかし、子供たちの『光が出た、光が出た』といい騒ぐ声は止まない。そこで住職が堂内に入ってよく見ると、それは鏡から光が出ているのではなく、観音像が光を放つのであった。この観音放光の話を伝え聞いた老少男女は群集して参詣した」とある。こうした話もあって、常然寺の観音は「児(ちご)観音」「子育て観音」として信仰されてきた。

 浄円寺 真宗本願寺派 新田沖(田中組) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 一心山 ③由緒 寺伝によると、康元(こうげん)元年(一二五六)高井郡井上越後守善勝の次男、浄光は仏門に入り、唯照といった。井上村(須坂市井上)に一宇を結び、俗名をとって浄光寺と号し、開山となった。そのあと、教存は保科弾正正俊と婿舅(むこしゅうと)の関係となり、慶長(けいちょう)二年(一五九七)高井郡保科氏とともに上杉景勝にしたがって会津若松へ転住し、会津若松の浄光寺を創立した。井上村浄光寺は教存の弟の家筋が継承した。天正年中(一五七三~九二)同郡小山村西越(須坂市小山)に堂舎を建立して移転し、同じく浄光寺を寺号とした。寛永十二年(一六三五)会津若松浄光寺と寺号が紛らわしいとの理由で浄円寺と改称し、更級郡綱島村梵天浦(ぼんてんうら)に移転した。寛政元年(一七八九)の犀川大洪水で堂舎・境内地が流亡したため、明和七年(一七七〇)小島田村に借地し、堂舎を再建した。明治七年(一八七四)小島田村の籍に入った。『綱島村誌』に「浄円寺跡、康元元年創立、僧浄光開山。京都府下西本願寺未派なり。本村寅の方梵天浦耕地にあり。寛政元年犀川洪水にて境内流亡し、同郡小島田村に借地移転す」とある。現本堂は平成四年(一九九二)再建された。

 勝願寺 真宗本願寺派 新田沖(田中組) ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 无上山(むじょうざん) ③由緒 当寺は延宝(えんぽう)二年(一六七四)更級郡綱島村梵天浦に乗念によって建立され、乗念を開山とする。寺伝によると当寺の先祖は藤原氏後裔(こうえい)の三原氏である。三原氏は更級郡桑原庄を領知して桑原と改姓した。桑原左近大夫は桑原古谷館に居住し、佐野城・矢崎山城を守った。子の左近将監(しょうげん)は村上氏に属し、村上義清は武田信玄に敗れ、桑原一族は四散した。元和年間(一六一五~二四)桑原主膳正は同郡西寺尾村杵渕に居住し、その子、次宣は寛文(かんぶん)年中(一六六一~七三)、同郡綱島村浄円寺境内地に私宅を構え、真宗に帰依して乗念と号した。延宝二年私宅を改めて仏道修行の道場とした。元文(げんぶん)二年(一七三七)勝願寺の寺号を認可され、その後犀川の水害により明和七年(一七七〇)、浄円寺とともに小島田村に移転した。明治十一年(一八七八)、浄円寺より独立し、本願寺直末(じきまつ)となった。

 入西寺 真言宗豊山派 中村沖(中村組) ①本尊 大日如来(だいにちにょらい) ②山号 小嶋田山 ③由緒 寺伝によると、元徳三年(一三三一)頼真(らいしん)によって下小島田村下鶴巻沖に建立され、頼真を開山とする。当初、寺が建立された境内は桜宮所と称され、本堂坊舎は厳然としていた。寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月、千曲川の大洪水は本堂・庫裏すべてを押し流し、住職は溺死するという惨事に見舞われた。また、寺のあった城蔵(住村)集落も流亡し、住居は四散した。そのため堂舎の再建も困難となり、草庵(そうあん)内に本尊を安置していた。明和二年(一七六五)松代藩の検地のとき、杲尊(こうそん)は郷中の協力を得て現在地に境内地を求めて移転した。その後、天明七年(一七八七)杲呼(こうこ)によって寺が再建された。