松代領の小島田地区は、藩の蔵入れ地と藩士(地頭)の知行地が混在していた。寛文(かんぶん)四年(一六六四)の『真田幸道領知状並目録』によると小島田村は一四九六石余。このうち、村高の七五パーセントに当たる一一二三石余が一七人の藩士に給されている。小島田村における地頭の平均知行高は六六石余で、森平右衛門の一八四石余を筆頭に恩田佐左衛門の七石余が最低となっている。地頭やその知行地は固定されたものではなく、享保(きょうほう)七年(一七二二)の小島田村では地頭二六人の知行地が存在した(『御分限帳給所附』)。地頭は知行所から藩で定めた村の本年貢収納率によって、知行所農民から本年貢を徴収した。その年貢率は豊凶に関係なく三五パーセントと定められていた。収納超過分は越石(こしこく)として藩蔵へ収め、また、不足する場合は藩蔵から補給された。地頭の給所地には何人かの農民が所属し、農民から選んだ蔵本が、年貢徴収、あるいは、地頭賦課の御用達金や無尽の事務など扱った。
明治元年の上小島田村『御年貢水名寄帳』によると、村高は本田六四五石余、新田九二石余があった。新田は藩の蔵入地で、本田には蔵入地はなく、一九人の地頭の知行地となっている。地頭塩野歳五郎(二八七石)は、上小島田村に四一石余の知行地があって、二二人の農民が所属していた。一人の地頭だけに所属する農民もいたが、複数の地頭に所属する農民もいた。たとえば本田七〇石余・新田五石余を所持する岡沢文左衛門は、塩野歳五郎をはじめ、一四人の地頭に所属していた。