二 村のようす

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 江戸時代の幕藩財政の基盤は、自給自足的に生産活動をしていた農村にあった。領主は年貢・諸役などの貢租は、現物納や労務で提供させた。しかし、貨幣経済の発達にともない、これらを金納させるようになった。このため農村における自給自足的体制は崩壊していくとともに、借財のために零落する農民もしだいに増えていった。

 下小島田村の弘化四年(一八四七)一月の『借金人別御書上控帳』(小島田乙区有文書)には、その冒頭に借財農民四二人と抵当権が設定された土地の総高二九八石余が記載されている。そして以下借財農民四二人について個人別に貸主と金額・金利が書きこまれている。借財農民は借金の担保として、持高全部を抵当に入れている。公的な藩の「御内借」を除いた個人の貸し主は三七人で、金利は八分から一割五分である。とくに借用期間の記述はないが、大部分は年内に返済されている。借財農民四二人は農家の三割五分にあたり、抵当に入れた土地は、村高の四割五分にも達している。

 この借財農民のうち巳之作と伝五郎の分についてみると、巳之作の父親は弘化四年には亡くなっていたらしく、巳之作はこのとき一五歳であった。巳之作は本新田一三石余の土地を担保に藩から一五両、地頭から一〇両、同村の二人から一一両、合計三九両の借金をした。この惜金はこの年に返済されている。返済金はどのように工面したかは不明である。この年の四月十四日には、善光寺大地震にともなう犀川の大洪水にこの地も見舞われた。文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)下小島田村の『御本新田名寄書上帳』(小島田乙区有文書)に、巳之作持ち分として「本田高五石四斗八升三合五勺・新田高八斗九升七合、合計高六石三斗八升五勺」とある。一四年前の弘化四年の持高の半分以下になっている。どういう事情で持高が減ったかは明らかではない。借財整理のために土地を手放したのであろうか。また、伝五郎の借金は二〇二両ときわだって多いが、伝五郎もこの借金はこの年に返済している。文久元年の『名寄書上帳』(小島田乙区有文書)には代がわりしたのか、伝五郎の名はみえない。

 天保(てんぽう)五年(一八三四)下小島田村の『役中案文写』(小島田町・田口信男所蔵)に四一件の案文が記載されている。このうち、一五件が田地譲渡証文で、田地質入れ証文も一件ある。田地譲渡・質入れ証文は、案文の四割ほどを占めている。借財のために農地は流動したと推定される。こうした農地の流動は経営規模を零細化させ不在地主階層を生んだ。

 上小島田村は文久元年(一八六一)一二ヵ条からなる「村掟(むらおきて)」を新たに制定した。その条文に「他所へ地所譲り渡し候儀は、一切致すまじきこと。ただし、小作の儀も同様致すまじきこと」と土地を村人以外に譲渡することを禁止している。上小島田村の本新田高はこの年、九五七石余、入り作をふくめた農家総数は、一六一軒、平均五石九斗である。このうち五石未満の農家は五五パーセントの九五軒ある。小前末々と称された農民が、村の過半数以上を占めていた。こうしたきびしい農民の生活実態は明治になっても尾を引いていた。明治十三年(一八八〇)、小島田村は「家産のごときは富者三分・貧者七分」と県に報告している(『町村誌』)。


写真6 更埴橋上から見た堤外地中村沖のモモ園 中央奥の森は桜田神社(荒井伊左夫提供)