入西寺は東寺尾村福徳寺の末寺で、檀家が少なく、村寺として寺を維持してきた。入西寺末寺の尊良寺も檀家が少なく、真島村本道の組寺として維持してきた。檀家の少ない入西寺は末寺の尊良寺にも助力を求めた。入西寺も尊良寺も無住のときは福徳寺が兼務した。下小島田村も本道組も千曲川の洪水に苦しんだ川辺の村里で、寺の維持は檀信徒の重い経済的負担となっていた。尊良寺の入西寺離檀問題は、天明七年(一七八七)現在地に入西寺を再建するところからくすぶっていた。このときは尊良寺側か祠堂金(しどうきん)五〇両を入西寺に寄進する条件で、福徳寺の直末寺となる申し入れをした。しかし、住職は承諾しなかった。嘉永(かえい)四年(一八五一)入西寺、尊良寺とも無住となり、福徳寺が両寺の住職を兼務した。このとき、尊良寺は入西寺を離れて福徳寺の直末寺になる訴訟事件がおきた。尊良寺側の当初提示した祠堂金は一五両であった。過去の経緯からして入西寺側は納得しなかった。離檀は寺の興亡にかかわると入西寺檀信徒・村役人は連署して尊良寺檀信徒を寺社奉行所に訴えた。この訴訟事件は、青木島村金光寺・西条村清水寺の仲裁で、尊良寺側は祠堂金三〇両・諸入料金四両を入西寺側に拠出することで和解し、尊良寺は福徳寺の末寺となった(「尊良寺離檀一件控」)。