村高の推移

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寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)には上下小島田の二ヵ村に分かれたが、郷帳では一村として扱われた。村高は『慶長(けいちょう)打立帳』(一六〇二)一四九五石余、『正保(しょうほう)郷帳』(一六四七)一四九六石余、『元禄(げんろく)郷帳』(一七〇二)一五八三石余、『天保(てんぽう)郷帳』(一八三四)一八七九石余。小島田村には、この村高とは別に、大英寺領分四八石、長国寺領分三九石余がある。慶長・正保・元禄期より天保期に村高が増加したのは、新たに開発された新田が、本田に組み入れられたためである。明治七年(一八七四)には、一八七一石余で、そのうち、四一九石余が「川欠(かわかけ)・荒地永引」となっている(松代町小島田分をふくむ)。なお、明治から昭和三十五年(一九六〇)ころまでは、田一二〇ヘクタール・畑六〇ヘクタール内外で推移した。