この地区の一二〇ヘクタールほどの水田は鯨沢堰(けいざわせぎ)水系と小山堰水系によって灌漑(かんがい)されている。江戸時代まで鯨沢堰は下堰の支堰であり、そのため流末の小島田村は干ばつの年は水不足に悩まされた。『町村誌』に「旧来上氷鉋村ほか、一六ヵ村合わせて高八五二〇石の水田は、明治元年(一八六八)五月の大洪水により用水路が破壊され、廃田と化した。そこで組合一七ヵ村協議して、明治のはじめ、新たに水路を犀川に取り、今日にいたる。これを鯨沢堰という。堰口より流末まで九キロメートル余、流末は千曲川に入る。鯨沢堰がようやく疎通して本村の耕地を灌漑し、また、飲料水としても使用することができるようになったので便利になった」とある。川中島地方は中世の末ころまでは、犀囗付近から高瀬川とよばれた犀川本流と、犀川から分流して南流する岡田瀬川、南東に向かって流れる御幣(おんべ)川(のちの上堰)・古犀川(のちの中堰)・中瀬川(のちの下堰)、中瀬川支流の小島川(のちの鯨沢堰)の自然流水に頼っていた。この自然流路を用水堰として整備したのは、慶長期(一五九六~一六一五)松平忠輝の家臣で松城城代であった花井吉成(よしなり)・吉雄父子という。
明治元年五月の犀川大洪水は、犀口三堰に大きな被害をあたえた。犀川の川床はこの洪水で二・五メートルほど沈下した。このため三堰の犀川取水が困難となり、とくに下堰支流の小島田堰の村々は灌漑用水のみならず、飲料水にも事欠く状態となった。そこで小島田村など下堰下待居(しもまちい)七ヵ村は、犀川に取水堰を新設して下堰から分離し、堰名を鯨沢堰と改称した。
鯨沢堰の下堰からの分離独立の過程には紆余曲折(うよきょくせつ)があった。上流の上氷鉋・中氷鉋・下氷鉋などの上流村々は新堰開削については当初消極的であった。また、下堰は下待居七ヵ村が離脱することは、その後の維持管理に支障をもたらすところから、松代藩道橋奉行に下待居組合の新堰開削を断念するよう働きかけもした。藩では下堰の要請をうけて、下待居組合関係者を集め、下堰を離脱しないよう説得をした。下待居組合ではその対応策のため幾度となく会合をもった。小島田村は「下待居組合に所属している限り、水不足は解消できない。たとえ藩からの助成がなくとも、子孫に水不足で難儀させるべきでない。藩役人へは、現地に行ったらすでに工事を始めていて、中止を命じたが聞かなかったと体裁よく返事をして、計画通り着工すべきである」との強い主張によって新堰が開削された(「御用日記」青木家文書)。
小島田村など三堰流末の村々が犀川取水の苦しみから解放されたのは、昭和二十八年(一九五三)、東京電力小田切ダムの完成である。戦後、わが国は深刻な食糧難におちいった。そこで同二十四年、農業の近代化の促進・食糧の増産・食糧の自給体制の確立などを目的に土地改良法が施行された。これをうけて、上中・下・鯨沢・小山の四堰組合は土地改良法にもとづき、それぞれ土地改良区を発足させた。同三十八年、鯨沢・小山両堰土地改良区は合併して川中島土地改良区が発足した。