小島田地区の中央部、やや西寄りに主要地方道長野真田線が南北に通っている。この道路は、江戸時代から明治のころまでは往来道・善光寺道・松代道・長野街道などとよばれた道路である。この道を幾度も整備改修して、今の道路ができた。
明和二年(一七六五)上小島田村の「酉(とり)改水帳」(小島田甲区有文書)に「往来道弐間半・八百三拾六間、八反九畝弐拾歩、村中」とある。この往来道は、真田一〇万石城下町松代と善光寺町を結ぶ主要街道であった。松代藩主をはじめ、人馬の往来でにぎわったこの道も、県道が改修整備されたとき、新道路敷にはずれた往来道は、廃道となって民間に払い下げられたり、あるいは、里道や田圃(たんぼ)の畦道(あぜみち)と化した。江戸時代の往来道は明治になって長野道とよばれるようになったが、長野町と松代町を結ぶ主要道路に変わりがなかった。西寺尾舟橋から小島田村中を通って、野田組集落のなかをL字に曲がり、下氷鉋両角さん(両角豊後守(もろずみぶんごのかみ)墓所)・氷鉋斗売(とめ)神社をへて丹波島丹生寺へと通じていた道幅四メートル近くあった主要道路、長野道の多くはその姿を消した。残っていても市道に降格され、道幅も広いところでせいぜい三メートルほどである。道幅の面でも長野道は里道となり、大正元年(一九一二)の五万分の一地形図以後は、地図上からも「長野道」は消えた。そうして、新たに松代町と長野市をほぼ直線的に結ぶ県道長野松代線が地図上にも書きこまれるようになった。