寺尾舟橋から千曲川に沿って花立、西寺尾神明・東福寺・横田・塩崎をへて八幡の八幡宮に通じる里道を八幡街道とよんでいた。花立集落が移転する前ころまでは、主要道路であった。大正時代のこの往来道について郷土史家でもあった伊藤磐(いわお)は『私のあるいた道』のなかで「千曲川沿いに通る往来道の鯨沢堰落ち尻近くには水車屋が二軒あった。舟橋を渡って川向こうの柴村の人も水車屋にやってきた。金井山から出る柴石は需要が多く、朝食前から舟橋を渡る音がした。花立集落に現れてくる荷車は家族四、五人で押したり引いたりして何組もの荷車が、かけ声をかけて通っていった。十二月の「八幡のおねり」日には、特に八幡街道はにぎわった」と記している。この道も今では釣り人の通う小道になった。