寛保二年の千曲川の大洪水を「戌(いぬ)の満水」ともいう。七月二十七日から八月一日まで降りつづいた豪雨で、千曲川は大氾濫(はんらん)し、沿岸村々に大きな被害をあたえた。小島田村は入西寺護摩堂・庫裏、民家五〇が流潰(りゅうかい)した。また、桜宮・八幡宮(釜屋)・池田宮の鳥居が流失した。鶴巻地籍にあった伊勢宮・城之宮・天王宮は本殿、社地ともに流亡した。この満水で男女七七人、入西寺の僧一人が溺死した(松代町・矢野磐家文書)。犠牲者は川合村の八一人についで多く出た。馬も一匹流されている。耕地は村高一七九二石余のうち、二六パーセントが、「川欠荒地永引」の川原と化した。水害の被害をうけなかった耕地は、村高の三割ほどにすぎなかった(『県史』⑧)。この水害で川原となった耕地の大部分は、そのあと放置されたらしく明治七年になっても村高の二割の三九〇石余が「荒地高永引」のままであった。そしてこの永引地の八割は、千曲川沿いの下小島田区にあった(『町村誌』)。花立沖の小字「戌久保(いぬくぼ)」はこの洪水でできた窪地からついたと伝えている。