小島田村は、筆塚二基という数字が示すように、稲里村や真島村にくらべ寺子屋や師匠は少なかった。明治初期の近代的小学校教育が始まったとき、大塚・綱島両村の知達(ちたつ)学校、丹波島・青木島両村の明衷(めいちゅう)学校が開校した。これらの村々は、二ヵ村合わせても上小島田村や下小島田村より小規模村であった。村で独立小学校を開校しなかった上小島田村の児童は、下氷鉋村の作新学校へ、下小島田村の児童は、真島村の進脩(しんしゅう)学校へ通学した。寺子屋や師匠の少なかったことも、村単独の近代的小学校の設立を消極的にさせたのであろうか。
寺子屋師匠には常然寺住職善僑(ぜんきょう)・柳沢門月(もんげつ)、柄沢大之進らがいた。また、明治の教育者では伊藤駒三郎・杉山光恭かおり、初代小島田村長倉田龍馬(りゅうま)は夜学会を開き青年たちを啓発した。
柳沢門月は、天保(てんぽう)三年(一八三二)篠ノ井岡田に生まれ、安政二年(一八五五)常然寺の住職となり、その後、下氷飽村善導寺住職に転出した。常然寺住職在任中の明治五年(一八七二)まで一八年間、寺子屋師匠として平仮名・松代領内村名・今用往来・庭訓(ていきん)往来・四書五経・算術など教え、門弟三〇〇人余という。常然寺境内に門弟の建てた筆塚がある。柄沢大之進は、文政七年(一八二四)下小島田村中村に生まれ、松代藩に書吏として勤めた。書をよくし、奉公の余暇をみて子弟に漢籍・算術・諸礼式などを教えた。入西寺境内に門弟の建立した筆塚がある。
杉山光恭は嘉永六年(一八五三)野田組に生まれ、常然住職善僑(ぜんきょう)に学び、長じて松代藩士水野菱水(りょうすい)・竹村杏邨(きょうそん)・高野真遜(しんそん)らについて漢籍を修めた。学制発布後は、作新学校授業生となり、そのあと、首席訓導となった明治九年(一八七六)県推薦により東京師範学校に学び、帰郷後は作新学校・八幡学校・郡立更級(さらしな)学校・下氷鉋常高等小学校などの校長を歴任した。退職後は信濃図書館の設立に尽力し、信濃教育会の終身会員に推された明治三十五年皇太子(大正天皇)の川中島古戦場跡来訪にさいしては、『古戦場回顧集』を編纂(へんさん)して献上した。