幕末から明治の文化人たち

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小島田地区に隣接している稲里・真島・西寺尾では江戸中期ころから幕末、明治にかけて文芸活動が活発で、『郡誌』や『人名辞典』に登場する文芸人が多い。これにくらべて小島田地区は文化的土壌に恵まれなかったのか、文芸の担い手となって活躍した人は少なかった。

 俳人では文化・文政期(一八〇四~三〇)に百珥(ひゃくじ)・宗娥(そうが)、幕末から明治にかけて林左(りんさ)、林月(りんげつ)・松甫(しょうほ)・鮮明(せんめい)・半仙(はんせん)・春亭(しゅんてい)などの名がみえるが、真島・稲里のような俳壇の活発な活動はみられなかった(『長野県俳人名大辞典』)。林左(田口林左衛門)は明治十八年(一八八五)『廻文花見集(かいぶんはなみしゅう)』を刊行し、小島田では高橋梶葉(びよう)・伊藤竹操(ちくそう)・田口柳雫(りゅうだ)・滝沢種吉(たねきち)の句が掲載されている。歌人では月迺亀麿(つきのかめまろ)・月迺亀守(かめもり)父子がおり、八幡社地に父子の歌碑がある。

画家では田中月耕(げっこう)や、その弟子小田切半仙(はんせん)が知られている。月耕は狩野派の画家で、下氷鉋の和算家東福寺泰作らとともに、松代領内の地図作製に寄与した。また、松代長国寺御廟の四壁に描いてある花鳥絵は月耕の作という(『更級郡埴科郡人名辞書』)。八幡社地に彰徳碑がある。このほかに眼科医の井上雲桂(うんけい)は能書家として知られ、八幡社地の「三太刀(みたち)七太刀之碑」の文字は雲桂が揮毫(きごう)したという。