米軍機の空襲など考えてもいなかった小島田村でも、空襲の標的にされると白壁を墨で迷彩し、仏具まで供出するようになった昭和二十年三月、高橋三井(みつい)は二歳の子を背に、三歳の子を手に引いて出征する夫を見送った。そのときの心情を「三月の中旬の寒い日だった。幼い二人の子を連れて田の麦の草取りに行っていた。その時、夫は一枚の赤紙を持って駆けつけた。それは役場からの召集令状だった。その瞬間私は何とも言いようのないショックで胸が詰まり、目の前が真っ暗になった。これが来れば死ぬ覚悟で出征しなければならない、お国のために。出征の当日は赤だすきを肩に掛けた夫の回りを何も知らない子どもたちは、はしゃぎ回って大喜びしていた。こんなわが子を見ると私の胸は張り裂ける思いであった。大勢の歓呼の声に送られて夫は出征していった。次第に遠のく夫の後ろ姿に無事で帰ることを願いながら、涙がとめどもなく流れた」と、出征兵士の妻の心情を『戦争とわたし』(中村公民館刊)に寄稿している。