三井の夫が出征して行って間もなく、五月に善光寺の正信坊(しょうしんぼう)に集団疎開していた東京千寿第四国民学校児童が、新城学寮(中村助夫宅・三八人)、千曲学寮(高橋広宅・四〇人)に再疎開してきた。このとき、千曲学寮の寮母をつとめた岡沢包子(かねこ)は、児童の一こまについて「一年生の子は母を思い出してか、集団の規則の厳しさからか、時々物陰で泣いていた。よい子だから戦争の勝つまでは我慢しようねと慰め、励ますこともしばしばあった。若い私には母のような優しいことばがでなかった。戦争のために両親と引き離されて見も知らない土地に集団疎開させられた子どもや親の気持ちを思うと胸が締めつけられた」と、これまた『戦争とわたし』に寄稿している。