日中戦争で召集をうけ、除隊間もなく太平洋戦争で再召集され、昭和十八年十一月戦死した中村智(さとし)の遺児茂雄は、「戦死の公報が伝えられたとき、父は死んだのかな、どこかで生きてるのかなと思っただけで、悲しみみたいなものは湧かなかった。それは、記憶に残る父は除隊して家にいた数ヵ月だけだったせいもある。小島田の遺児は皆自分より年下だ。全く父の顔すら知らない、それにくらべると自分はまだ幸せだ。父の記憶は薄いが、写真を見ると記憶の父の顔と重なるからだ。戦中・戦後と病気がちな母を支え、七反余りの野良仕事に追われた日々のため、人並みの楽しい子供のころの思い出も、青春も創れなかった。聖戦の名のもとに多くの子供たちから父を奪った惨酷な戦争は、自分らの時代でたくさんだ」と語っている。