海外引揚げ児童

762 ~ 763

昭和十五年渡満し、チャムス市で終戦を迎え、二十一年九月母杉山せつと親子六人で父の生地小島田に引き揚げてきた光信(当時一一歳)は、『陽光』でつぎのようにつづっている。

 父は、チャムスの日本人青年学校で教師をしていた。母との間に六人の子どもがあった。一番上が小学校六年の姉で、一番下は生まれて二ヵ月にならない妹であった。父は八月六日現地召集で牡丹江(ぼたんこう)に出征した三日後、ソ連が参戦した。この日から国の後ろ楯を失った在満邦人の言語に絶する難民行がはじまった。

 大人は母一人、後は小さな子ども六人が私の家族である。一番下の生まれたばかりの妹は、小学三年の妹の背に、三歳の妹は六年の姉の背に、私は家族中の衣類を詰め込んだリュックを背に負った。母は、重い荷物を背負って五歳になる弟の手を引き、チャムスの駅に向かった。駅は避難民であふれていた。列車は暴動の混乱の中で幾度となく立ち往生させられた。十六日の早朝、飢えと渇きでくたくたになってハルピン駅に放り出された。父が長春市にいるらしいというので、家族単独行動で長春に行くことにした。貨物列車は途中の駅に止まるごとに暴徒の群れに襲われた。私の乗っていた貨車にもソ連兵が自動小銃をもって乗り込んできた。ローソクのあかり下にいた私は、入ってきた兵隊の正面だった。いきなり私の胸ぐらを締め上げ「かねをだせ!」である。恐ろしさで顔はひきつり、声も出ない。近くにいた人が金を与えると出ていき、私は助けられた。ローソクの滴が、私の着た黒いオーバーの胸元に涙のようにたれていた。長春の駅も難民であふれていた。行くあてもなく、頼る人もないので、南長春の難民収容所へ行く群れの中に入れてもらった。馬車に妹や弟たちを乗せ、わずかばかりの荷物を投げ上げているところへ、全く突然に父が現れたのである。何千人もの人混みの中から父は家族を見つけ出したのである。「もう一人や二人は死んでいると思った」という父のつぶやきに、家族全員揃った喜びの深さを子ども心に感じた。その後、父と三女の妹は収容先で病死した。

 チャムスを出てから一年一ヵ月、父と下から二番目の妹の遺骨を胸に抱いて長野駅頭に降り立った。髪は抜け、着のみ着のままの放浪の果てにたどり着いた、この父母の国で私たちは母にすがって思い切り泣いた。