敗戦の悲劇は、一般渡満家族のみならず、満蒙の地で終戦を迎えた将兵も例外ではなかった。終戦後、虜囚となってシベリアで強制労働させられた荒井伊左夫は、昭和二十二年(一九四七)十月、祖国の土を踏んだ。荒井は虜囚の屈辱や過酷な労働、厳寒に耐え忍んだ抑留生活についてつぎのように語っている。
私は中国東北区長春で終戦を迎えた。この年の九月、公主嶺(こうしゅれい)から貨物列車に乗せられ、バイカル湖に近いイルクーツク地区に一ヵ月後に降ろされた。待っていたのは厳寒と重労働に加え、食料不足の飢えである。起床六時はまだ闇の中、気温は氷点下二〇~三〇度に近い。一片の黒パンと空き缶に注がれた一杯の大豆や燕麦(えんばく)などの粥(かゆ)の朝飯後、八時の作業開始までに現場に追い立てられた。森林伐採・鉄道敷設工事・石炭運びなど、雪の中で死に追い立てられるがごとく、強制労働が闇の帳(とばり)が下りる午後五時までつづいた。終戦の年から翌年冬にかけては、慣れない作業と食料不足や想像を絶する寒さで、栄養失調、下痢、発熱などで屍(しかばね)は山を築いた。望郷の思いがかなえられず、異国の土にさせられた同胞を雪中の穴へ見送るごとに帰国の願望はしだいに遠のいていった。
このように戦争は、三六〇戸の純農村、小島田村民をも巻きこんで、日本の無条件降伏で終結した。