地方行政の区画分合

772 ~ 772

稲里村は明治四年(一八七一)に廃藩置県(はいはんちけん)が布告された当時、中氷鉋村は上田県に、下氷鉋・広田・藤牧の三ヵ村は松代県に属した。明治五年戸籍法が施行されると、中氷鉋村は第三六区、下氷鉋村・広田村・藤牧村は第三七区に属した。同七年戸籍法が改正され、大小区制が施行されると、広田村・藤牧村は北第一六大区第三小区に、中氷鉋村・下氷鉋村は北第一六大区第五小区に属した。同八年、広田村と西藤牧組を除いた藤牧村の両村は、戸部村の生駒(いこま)組とともに合併して田牧村となった。西藤牧組は戸部村に編入された。村名は、広田・藤牧両村の脚字をとって「田牧」とした。明治九年、中氷鉋村と下氷鉋村が合併して氷鉋村となったが、同十三年、氷鉋村はふたたび中氷鉋村と下氷鉋村に分離した。