昭和三十年(一九五五)一月一日、稲里村・真島村・小島田村・青木島村の四ヵ村は合併して更北村が発足し、三大字は更北村の大字としてそのまま継承された。稲里村は当初、四ヵ村合併についてほぼ全村一致の状況にあった。しかし、真島村の北部住民の長野市合併運動に刺激され、稲里村内にも長野市合併を支持するものが出てきた。四ヵ村合併を審議する稲里村議会の開催に当たって、長野市合併を主張する一部村民が役場に押しかけ、警官が待機するという一幕もあった。昭和二十九年十二月一日、四ヵ村村長が連署をもって合併申請書を知事に提出した。これによって十二月県会で四ヵ村合併が審議されることになった。真島村・稲里村の長野市合併派住民は、大型バスに分乗して県議会議事堂に参集し、県会で四ヵ村合併議案の審議未了を陳情した。しかし四ヵ村合併案は県議会で可決され、三十年一月一日更北村が発足した。
昭和四十一年十月十六日更北村は長野市に合併し、三大字は「稲里町」を冠して継承された。